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CDTVを見ていたら

あの甲高い声のCG坊主が

「トップ10には凡曲がランクインだにょ~」

と叫んでいてぎょっとした。

五曲ね。五曲。
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『幸福番外地』出版によせて(一)

CCF20070714_00000.jpg
 2007年6月、ようやく『四コマ 幸福番外地』が出版された。当会でも折に触れその名が登場してきたから、もはや説明は不要であると思われる。遅れてきたルーキー・西野空男待望の、本当に待望の処女作品集である。
 『幸福番外地』出版の話は、西野が人選から梱包までのほぼ全行程を手掛けた同人誌『架空』が、発行はおろか、着想されるよりも前から持ち上がっていたものであり、『架空』さえも間があいたと感じる今となっては些か遅すぎた感が否めない。

 『架空』は、限られた集団の中ではあるけれども、大いなる関心と好意あるいは混乱と敵意に迎えられたのであり、その船出は紛れもなく幸福と言えた。この度の出版がその恩恵を受けられたのならば、西野のそれからも変わっていただろうと思うと、この間の悪さが彼らしいのだとでも苦笑するほかないのだが、大袈裟でなく、『架空』を手に取ったとき、私は西野の飛躍を信じて疑わなかった。
 いや、その時も、『架空』がある程度売れ出した時点でも、さらに言えば手元在庫がすっかり捌けた今でさえ、ビジネスとして西野が成功することへの期待など、全くないことに変わりはない。もとより馬鹿売れする漫画ではないと見ているが、漫画で売れることは、生業を別に持つ西野にとって死活の大問題であってはならないし、結局それは西野の問題であって、我々の問題ではないからである。
 我々の問題、すなわち私は西野が、「つげ義春以後」を担うべき表現を創造してくれさえすればよかった。作品集の帯にて高らかに謳われている、西野を「ど真ん中」に置くという「つげ義春以後」が一体どのようなものであるのか、そう謳った版元及びそう謳うことを許した著者の真意がどこにあるのかは、私には皆目検討もつかないけれど、以後でありながら「以後」たらんとしない、志低き昨今の漫画界を鑑みれば、そのように煽りたくなる気持ちは理解できたし、神格化したつげ義春の名を今敢えて口にする、ともすれば蛮勇との謗りを受けかねない西野の作家姿勢は、変わらずに共感を覚えるところでもある。

 我々は「以後」に居るのだという宿命的前提に立って、その地点から話を始めねばならないのに、同じ道を今度は直進する快感に溺れてか、その事実を忘れて無為のまま十年、二十年を過ごし、やがては三十年が失われようとしている(何を基準にしているかは、「以後」論の重要なファクターであるので、後ほど詳述する)。メインストリームから外れた場所においてさえ「以後」は以後ですらなく、代替的に発生した事象といえば、コレクターズ・アイテムとして怪作・珍作の類を持ち上げたり、良心的ではあるが表現的でないコマーシャル作品の解析に熱中したりといった、逆説まみれのものばかりであった。
 こうした閉塞状況において、西野の登場は理屈を超えた興奮をもたらした。私などは『幻燈』を読み、『幸福番外地』の原稿を読み、『架空』の構想を話す中で、興奮のあまり「番外地から出た船は番外地を進み、やがて真なる番外地へと辿り着くだろう」などと、愚にもつかない感想を垂れ流していたのだが、「つげ義春以後」など実際には見たこともない私にとって、西野は未知の世界を予感させるカリスマであった。期待は桁外れに大きかったのである。

 西野は『幸福番外地』で自らの物語を客観化する術を手に入れた。それは本質的なというよりも全体的な意味で物語る視座を発見した大事件であったが(であるから私は、「幸福番外地」にリアリズムを認めながら「労働者を視野に入れたか?」と疑問を投げかける宮岡蓮二を、確かな眼の持ち主であると信頼するのである)、ネクスト・ワンに過剰とも思える期待を寄せていた私にはようやくのことに過ぎず、それによって西野が同時代で抜きん出たとしても、むしろ軟弱な才能をしか生み出せなかった空虚な時代の体たらくを嘆くべきであるとさえ思っていた。
 西野は既に持っていたものを自覚したに過ぎず、重要なのはそれをどのように組み立てるのかという次のステップなのであって、例えば西野に限らずとも、多くの才能ある表現者たちに共通して見られる、未だ原始状態にある極細趣味は、その作業に注力した結果、はじめて主義主張へと昇華され、特筆されるべき個性となるのである。ほとんどの場合、極細趣味は単なるトリビアイズムに陥り、作家の体力を奪うだけのものになる。全力で見当違いの方向に走り出して、その緻密さ・繊細さは、もっとアバウトで大雑把で非論理的非整合的な現実の前にメッタメタに叩きのめされてしまうのである。

 思えば私もまた『架空』熱にやられていたのだろうか。程なく西野は間違えてしまった。少なくとも私の期待を悉く裏切ってしまった。我々は、「妄想から妄想へ」と書かれたその時点で、そこに迷宮の出口を求める徒労を笑うべきだったのかもしれない。そうはしなかったのは何故だろうかと自問するが、ぜんたい、誰が「そうはしたくなかったからだ」と言えるのだろうか。
 『架空』以降、西野が公表した作品は、現時点で『幻燈8』の2作品、そしてWeb四コマ「さるのえつこ」だけである。性急に結論を求めるのではなく、進展があまりないと言ったほうがそれこそ良心的であるし、何より正確かもしれない。しかし、例えばブログ『西野空男の悲哀』で目にする西野漫画の1コマや、漫画哲学らしき文章、新しい本の構想を読むと、つげ忠男でなくとも、「兄貴苦しんでるなア」と言いたくなる。そこには、風車に向かう老兵の滑稽しか、いや滑稽さえも感じられない上に――どうか私のセンスのない比喩をお許しいただきたい。言い訳するならば、私には今の西野の苦闘が何ともパターナリスチックに思え、一言、物足りないのである――、彼の長所がどんどん減退していくのを見ると、何やら怒りに似た感情さえ覚えるのである。

 西野空男は、間違え方すら間違えてしまったのか?

 くどいようだが、私は西野の次なるステップを全身全霊で注視している。本稿では、専ら批判を書き連ねることになるだろうが、諸兄の好意的な解釈を期待したい。かつて恵那春夫が『ばく』時代のつげ忠男を長々と論じ、「書かなくていい」と断じたことが思い出されよう。西野空男の「甘え」を語る時期が今であるのか分からないが、根底にあるのは今もなお、期待させて止まない漫画家・西野空男の姿であり、『海辺の叙景』を超えるべき表現の極北である。決して模倣に終始し、狭い世界に政治的に安寧する編集者ではない。

「最近、忠告をよく受ける傾向にある。それは僕が何らかの舵を握っていることを意味する。忠告というのはすべてを受け入れると凡百になってしまう。僕の目の前にある一つ一つの世界をうまく積み上げて見栄えのする形にして行きたい。すべての忠告に耳を傾けるつもりであるが従うかどうかはわからない。」(『西野空男の悲哀』より)

 擬えて言うなれば、漸近する亀は緑たらんとすることもやめたのだろうか?

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