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アクチュアリティと無化~少年王者館『夢+夜』を観て

下北沢スズナリで少年王者館『夢+夜』を観た。「これは、まさにつげ義春ではないか!」と、胸が震えた。2時間ほどの公演が終わり、演者や天野天街らしき人物が外に屯してファンと談笑していたが、興奮しすぎた私は声もかけられず、足早に劇場を後にした。

天野の演劇については、「とにかくすごい」「天才だ」という評判をよく耳にしていたが、脚本や絵コンテを目にしたところで「何やらよく分からない」という認識だった。聞くところによると「観客もはなしを理解しているのか不明」というから、初回である今回は、せめて筋ぐらいはつかんで帰ろうと意気込んでいた。が、『夜+夢』は、決して意味不明というレベルではなく、確かにあちこち話が飛んでややこしいつくりをしていたために細部の認識には回数を要するだろうけれども、ある程度オーソドクスな内容であるように思った。

本筋は陸軍一兵卒の独白である。具体的なエピソードは5つもなかったのではないだろうか、野戦病院の看護婦である恋人とのやりとり、母親との思い出。大勢の出演者がいて、セリフも飛び交っていたが、ほとんどがレトリックから派生する心象風景であり、すべて回顧調で、端々に死を予感させるようなノスタルジックな演出が多かった。

筋が不明瞭であるとすれば、冒頭から、年齢の違う、もしかしたら属する世界も違う何人もの主人公自身がその旨を名乗りながら登場し、さらに撹乱を狙ってか、定石の設定を裏切る形で強くフォーカスされた出演者各々に強引に誘導される錯綜した視線が、文字通り客席を巻き込んで縦横無尽に展開されるからであろう。そのようなあわただしさは、前半部、アップテンポの音楽にのってひたすらリピートされる小気味よいというよりももはや脅迫的なセリフと、いちいちに図式的な意図が付与され、かつそれが無意味であることを明示された過剰な装飾、奇怪なダンスによって、この上なく昂り、天野のポスターの通り、反射的な直感を求められるシンメトリックな世界に気付けば引きずり込まれていた。

話を楽しむ、セリフに感動するというよりは、強烈な演出効果によって、「観劇」という行為のアクチュアリティにテーマがあるようにしか見えない作品になっている。たとえば、「誰かに見られているぞ」と観客の存在を執拗にアピ-ルしたり、「いま客席よ」と演者同士が客席からやりとりをしたり、客席を割って進み、舞台をファスナーでバサリと二分してみたり。その大胆さにおおいに驚きながらも、文字に起こしてみると随分とベタなやりくちである。

しかし、「この劇はあなたの心に続く長い一本道です、だから今夜だけは」というようなステレオタイプでは説明しきれない細部の作りこみがある。セリフの訴求力がある。本作をアクチュアリティのみに帰結させてしまえば、この劇が作られるべくして作られたのであろうという最も重要な直感に対する論拠が見つからなくなってしまう。何度も最初から繰り返される演劇の、散々繰り返しておきながら平気で前回を裏切る展開において、無化される演者と観客の労力が隠れ蓑に過ぎないということが証明されるのは、何とも天邪鬼なことではあるが、いよいよ終幕に近づいた結部においてであった。

主人公が恋人の腕の中で息絶える。息絶えたことを恋人は言葉にして説明する。これは、劇中、恋人が主人公によって撲殺されるシーンがあり(それが夢であるのかどうかは判然としない)、劇中世界は恋人の認識の世界であるから、世界の輪郭はブレ、やがて暗く閉ざそうとした経緯を踏まえてのことであろう(この映像効果は圧巻であった)。すんでのところで世界は消滅を逃れたのであるが、この、明らかに過多な説明が事実その通りであった、劇中では予定どおりに時間と物語が進んでいたことを味気ないタイミングで無理やり示されたのである。

なぜこんなことをさせるのか、見終えた直後では理解できず、『ゲンセンカン主人』を思い出しながら、秘すれば華と考え込んでしまった。本作は明らかに死にゆくものの回顧録などではないはず。というよりも、そんなところに焦点は置かれていないはずである。主人公の戦死、恋人との死別。重いテーマを金星人やUFOまで引っ張り出して茶化したにもかかわらず、タイトルからも分かるように、限定された途端に意味をなくしてしまうものがたくさん込められた作品であるにもかかわらず、なぜ。

そもそもが投げやりなタイトルである。夢に意味はなかろう。夜に意味はなかろう。+(プラス)に至っては記号である。無意味と無意味を足し合わせて有意義なものが生まれるはずがない。しかも、足し合わせる過程がタイトルされている以上、重要なのは結果ではない。結果がどうであれ、足した行為が現存するということ、それ自体が主題でなくして、このタイトルはありえない。にも拘らず終幕近辺でなぜ結論を明示するような嫌がらせをしたのか、じっさい困惑してしまった。

「もう一度やり直させてくれ」との主人公の懇願は、「あいよー」という甲高いナレーション、開演時に意味不明であった掛け声に呼応することで、そもそも始まりなど設定されていないメビウスの世界であったことを明らかにする。夢+夜の算式に続く=(イーコール)などありえないと最初に断っていたことを知るのは、開演後、だいぶ時間が経ってからだ。このメビウスの接点こそが恋人のセリフであって、天野は「観劇のアクチュアリティ」などという、まさに私が大好物とするしたり顔の「論のための論」が、その思考こそが既にアクチュアリティを喪失していると攻撃しているのではないだろうか。

生の本質は、あるいは死の本質は、表現がいかに示唆的で暗示的で構造的で戦略的であろうと模索しようとも、意匠の立ち行かない領域にある。存在は許されて存在するのではない、ただ在るから存在するのである。その本質的な空洞を埋めるべきヒューマニズムへの懐疑、これが天野の点景の全景であるように思えてならない。

生や死に関するセリフはどれも胸をつく誠実なものであった。それが作品を通して、作品や観客に誠実であったかというと、結果として裏切る場面もあったかもしれないが、文面として何一つ嘘はなかったと言っていいだろう。時代性を顧慮して、時にそれを逆手に取った笑いを生むスタイルに反して、登場人物たちのセリフはヒューマニズムへの憧憬を一切隠そうとしない。戦争ものとしては、最もセンシティブにならざるを得ないヒューマニズムの問題である。歴史学科に所属し、聞けば歴史モノを多く手がける天野が意識しないはずがない。その痛々しいほどの真っ直ぐな憧憬は、言葉遊びで、あるいは断片化の為であることを意識せざるをえない唐突な映像投影で、無情にも、幾たびも幾たびもすりかえられていく。そして思い出したかのようにヒステリックな圧迫シーンがやってくるのである。

夢に夜をプラスする行為の虚しさは、夢に現実を足そうとする傲慢さや夢に朝を足そうとする不道徳がないからこそ、いっそう深い。夢に夜をプラスした後に、おそらく天野は何か朝でも現実でもないものを足していくのであろうが、いったいその虚しき営みの中で、天野は何を無化したかったのか。労力の無化による「観劇のアクチュアリティ」の無化、その意図も込められていないわけではないだろう。というよりも、そこが出発点になっているだろうことは想像に難くない。ただ、天野はその先を提示している気がする。

1回目の私は、天野が無化しようとしたのは、ヒューマニズムに懐疑的であらざるを得ない憐れな存在としての自我、であると結論付けたい。ただし、残念ながら、そのために費やされた多大な隠れ蓑との関連や、無携帯やうどんの真意には、全く迫れていないのが実情である。


天野天街(あまの・てんがい)

【プロフィール】
1960年5月20日愛知県一宮市生まれ。愛知学院大学文学部歴史学科中退。1982年少年王者舘旗揚げ、名古屋を拠点として全国的に活躍。演劇、ダンス、人形劇、コンサート、ファッションショー等幅広いジャンルの舞台演出を多数手掛ける傍ら、漫画執筆、デザイン・ワーク、エッセイ等の分野でも活躍。1995年、映像作品『トワイライツ』で第41回ドイツ・オーバーハウゼン国際短編映画祭、第44回メルボルン国際映画祭短編部門グランプリ受賞。1999年『劇終/OSHIMAI~くだんの件』が岸田戯曲賞に最終ノミネート。1998年より演劇ユニット『KUDAN Project』にて海外公演を開始。『必殺するめ固め』(原作:つげ義春)を映画化予定。

【著書】
『星ノ天狗・御姉妹』ペヨトル工房、1995年8月
『ヨムゲキ100それいゆ-天野天街』演劇ぶっく社、2001年8月
『くだんの件 天野天街作品集』北冬書房,、2001年9月
『天野天街萬華鏡』北冬書房、2008年12月
『平太郎化物日記』北冬書房、2008年12月
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『幸福番外地』出版によせて(一)

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 2007年6月、ようやく『四コマ 幸福番外地』が出版された。当会でも折に触れその名が登場してきたから、もはや説明は不要であると思われる。遅れてきたルーキー・西野空男待望の、本当に待望の処女作品集である。
 『幸福番外地』出版の話は、西野が人選から梱包までのほぼ全行程を手掛けた同人誌『架空』が、発行はおろか、着想されるよりも前から持ち上がっていたものであり、『架空』さえも間があいたと感じる今となっては些か遅すぎた感が否めない。

 『架空』は、限られた集団の中ではあるけれども、大いなる関心と好意あるいは混乱と敵意に迎えられたのであり、その船出は紛れもなく幸福と言えた。この度の出版がその恩恵を受けられたのならば、西野のそれからも変わっていただろうと思うと、この間の悪さが彼らしいのだとでも苦笑するほかないのだが、大袈裟でなく、『架空』を手に取ったとき、私は西野の飛躍を信じて疑わなかった。
 いや、その時も、『架空』がある程度売れ出した時点でも、さらに言えば手元在庫がすっかり捌けた今でさえ、ビジネスとして西野が成功することへの期待など、全くないことに変わりはない。もとより馬鹿売れする漫画ではないと見ているが、漫画で売れることは、生業を別に持つ西野にとって死活の大問題であってはならないし、結局それは西野の問題であって、我々の問題ではないからである。
 我々の問題、すなわち私は西野が、「つげ義春以後」を担うべき表現を創造してくれさえすればよかった。作品集の帯にて高らかに謳われている、西野を「ど真ん中」に置くという「つげ義春以後」が一体どのようなものであるのか、そう謳った版元及びそう謳うことを許した著者の真意がどこにあるのかは、私には皆目検討もつかないけれど、以後でありながら「以後」たらんとしない、志低き昨今の漫画界を鑑みれば、そのように煽りたくなる気持ちは理解できたし、神格化したつげ義春の名を今敢えて口にする、ともすれば蛮勇との謗りを受けかねない西野の作家姿勢は、変わらずに共感を覚えるところでもある。

 我々は「以後」に居るのだという宿命的前提に立って、その地点から話を始めねばならないのに、同じ道を今度は直進する快感に溺れてか、その事実を忘れて無為のまま十年、二十年を過ごし、やがては三十年が失われようとしている(何を基準にしているかは、「以後」論の重要なファクターであるので、後ほど詳述する)。メインストリームから外れた場所においてさえ「以後」は以後ですらなく、代替的に発生した事象といえば、コレクターズ・アイテムとして怪作・珍作の類を持ち上げたり、良心的ではあるが表現的でないコマーシャル作品の解析に熱中したりといった、逆説まみれのものばかりであった。
 こうした閉塞状況において、西野の登場は理屈を超えた興奮をもたらした。私などは『幻燈』を読み、『幸福番外地』の原稿を読み、『架空』の構想を話す中で、興奮のあまり「番外地から出た船は番外地を進み、やがて真なる番外地へと辿り着くだろう」などと、愚にもつかない感想を垂れ流していたのだが、「つげ義春以後」など実際には見たこともない私にとって、西野は未知の世界を予感させるカリスマであった。期待は桁外れに大きかったのである。

 西野は『幸福番外地』で自らの物語を客観化する術を手に入れた。それは本質的なというよりも全体的な意味で物語る視座を発見した大事件であったが(であるから私は、「幸福番外地」にリアリズムを認めながら「労働者を視野に入れたか?」と疑問を投げかける宮岡蓮二を、確かな眼の持ち主であると信頼するのである)、ネクスト・ワンに過剰とも思える期待を寄せていた私にはようやくのことに過ぎず、それによって西野が同時代で抜きん出たとしても、むしろ軟弱な才能をしか生み出せなかった空虚な時代の体たらくを嘆くべきであるとさえ思っていた。
 西野は既に持っていたものを自覚したに過ぎず、重要なのはそれをどのように組み立てるのかという次のステップなのであって、例えば西野に限らずとも、多くの才能ある表現者たちに共通して見られる、未だ原始状態にある極細趣味は、その作業に注力した結果、はじめて主義主張へと昇華され、特筆されるべき個性となるのである。ほとんどの場合、極細趣味は単なるトリビアイズムに陥り、作家の体力を奪うだけのものになる。全力で見当違いの方向に走り出して、その緻密さ・繊細さは、もっとアバウトで大雑把で非論理的非整合的な現実の前にメッタメタに叩きのめされてしまうのである。

 思えば私もまた『架空』熱にやられていたのだろうか。程なく西野は間違えてしまった。少なくとも私の期待を悉く裏切ってしまった。我々は、「妄想から妄想へ」と書かれたその時点で、そこに迷宮の出口を求める徒労を笑うべきだったのかもしれない。そうはしなかったのは何故だろうかと自問するが、ぜんたい、誰が「そうはしたくなかったからだ」と言えるのだろうか。
 『架空』以降、西野が公表した作品は、現時点で『幻燈8』の2作品、そしてWeb四コマ「さるのえつこ」だけである。性急に結論を求めるのではなく、進展があまりないと言ったほうがそれこそ良心的であるし、何より正確かもしれない。しかし、例えばブログ『西野空男の悲哀』で目にする西野漫画の1コマや、漫画哲学らしき文章、新しい本の構想を読むと、つげ忠男でなくとも、「兄貴苦しんでるなア」と言いたくなる。そこには、風車に向かう老兵の滑稽しか、いや滑稽さえも感じられない上に――どうか私のセンスのない比喩をお許しいただきたい。言い訳するならば、私には今の西野の苦闘が何ともパターナリスチックに思え、一言、物足りないのである――、彼の長所がどんどん減退していくのを見ると、何やら怒りに似た感情さえ覚えるのである。

 西野空男は、間違え方すら間違えてしまったのか?

 くどいようだが、私は西野の次なるステップを全身全霊で注視している。本稿では、専ら批判を書き連ねることになるだろうが、諸兄の好意的な解釈を期待したい。かつて恵那春夫が『ばく』時代のつげ忠男を長々と論じ、「書かなくていい」と断じたことが思い出されよう。西野空男の「甘え」を語る時期が今であるのか分からないが、根底にあるのは今もなお、期待させて止まない漫画家・西野空男の姿であり、『海辺の叙景』を超えるべき表現の極北である。決して模倣に終始し、狭い世界に政治的に安寧する編集者ではない。

「最近、忠告をよく受ける傾向にある。それは僕が何らかの舵を握っていることを意味する。忠告というのはすべてを受け入れると凡百になってしまう。僕の目の前にある一つ一つの世界をうまく積み上げて見栄えのする形にして行きたい。すべての忠告に耳を傾けるつもりであるが従うかどうかはわからない。」(『西野空男の悲哀』より)

 擬えて言うなれば、漸近する亀は緑たらんとすることもやめたのだろうか?

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