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月刊架空12月号雑感

『月刊架空』12月号が2ヵ月遅れてようやく発売となった。前号11月号より2ヵ月の発行の遅れが発生し、その後間隔を縮められずにいる。『架空』という表現活動が、というよりも如何なる表現活動にも、経済活動としての側面がついてまわるのであるから、当初計画に劣後せざるをえなかった現状は、当然に『架空』にとって小さくない意味を持つはずであろう。

これを受けて、例えば欠番を2号作ることで発行年月と号名の不一致を解消するなど、方法はいくつもあった。が、『架空』はそうした常識的な手段をとらなかったし、今のところむしろ無頓着を装っている。
このことは『架空』が経済的な存在たろうとすることを放棄したのではなくて、この、とにもかくにも「無謀な」勢いで12冊出すという姿勢の表明こそが何よりも重要であるということの表れなのであろう。この「無謀」が表現活動なのか、経済活動なのかと問われると、応援者の一人としては実に回答に困る。確実に言えることは、『架空』は西野空男個人の行動なのであって、各号の中身についてはその様式に過ぎないことがはっきりした、ということである。

同人誌は勝手に作られればよい。何も目くじらをたてる必要もないのだが、目くじらをたてたくなったのは、ここに来てまさかの「ニシノ・ドクトリン」であった。

『月刊架空』は、毎号、表紙の裏に記された西野による巻頭言「制作まで」でスタートする(実はノンブルは表紙を1頁とする)。こぼれ話やら、苦闘の記録やら内容は様々であるが、今回は1980年代のマンガ史上の潮流「ニューウェーブ」が主題であった。
西野は「ニューウェーブ」について、同じくマンガ史に則って「三流劇画ブーム」に触れ、「ニューウェーブ」がその受け皿に過ぎないことを示唆し、「はっきりとした定義は存在しない」「<新しい波>という直訳」「それ以上でもそれ以下でもない」「意味が曖昧なので解釈の自由度が高く便利な言葉である」と断ずる。本誌中の『ガロ目次録』では更に進んで、「拠りどころとする傾向や、はっきりとしたスタイルはなく、マニアや一般読者を巻き込み注目させるためのキャッチコピー以外のものではなかった」とまで書いている。
この指摘はマンガ史においては重要かつ核心的なものであるのだろう。今までこのような見解に出会ったことはなかったし、共感するところも大である。

西野が言うように「拠りどころとする傾向」がなかったとまでは私は思わないが、綜合して「はっきりとしたスタイル」がなかったのは事実であろう。『漫金超』にも『マンガ奇想天外』にも『アゲイン』にも、トレンドとして「ニューウェーブ」という時代の空気に沿ったような作品が確かにあり、大友克洋や高野文子といった、マンガ史上の重要人物を輩出している。その功は事実としても、彼らには誰某のドクトリンの基に表現を紡ぐべき志向は明らかになかったし、残念ながらそのような作品を終ぞ持たなかったのもまた事実なのである。

ニューウェーブとは、単に、『ガロ』のイメージの根幹を成す貸本上がりの作家たちの「心からの排斥」――三羽烏を隠れ蓑にする周到さを持って――の結果、70年代後半の『ガロ』にて爆発的開花を待っていたマイナーマンガというマーケット領域が拡大しただけのことではないかと考えている。
このムーブメントの主体は作家ではなく、西野が指摘するような重複したいくつかのメディアであって、極論すればそれらの経済活動の結果でしかない。開放ではなく排斥であって、核心ではなく奪胎であったところを、そして一時的な汽水域の混沌を、SF(すこしふしぎ)と捉えてしまうのは人の性であろう。西野が列挙する「ニューウェーブ」作家たちが一体その後如何なる作品を作りえたのか、後世の我々には十分に知りうることである。

話を戻すが、西野はこの巻頭言にて、実体の見えない「ニューウェーブ」に擬えて、「ニューフラット」なる珍奇な概念を提唱している。恐らく現代美術家の村上隆が提唱する「スーパーフラット」に着想を得ているのだろう、北冬作家でもある木下竜一らの名を挙げ、「これらの作品に共通するものは、その時代の感覚や思考を背景に構成されている部分だと思うし、何らかの価値観との静かな衝突であったり、独特の観念を感じることのできる作品であると思う」という。
西野らしい諧謔であり、「ニューフラット」に詳細な説明はなく、格別の意味もないのだろう(実際、ブログでは早々に「ニューマイナー」と呼称を変更している)。

私はちょうど国立新美術館で開催されている『シュルレアリズム展』で、有名な一文を耳にしたばかりであった。
ダダは何も意味しない。・・・比べて「ニューマイナー」の何たる貧相なことか。ツァラが「何でもござれ」と言っていないのは明白であるが、西野はそう言っている。そうとしか聞こえない。

『月刊架空』は、個々の作品のレヴェルで言えば、よくこれだけの作家を集めたものだと素直に思う。連載マンガもあって、毎号楽しみにしている。しかし、冒頭にも述べたとおり、『架空』は西野そのものである。西野が力作をものにしないと何も始まらない。にも関わらず、西野はアベシン原作のコミカライズばかり手がけている。奇しくも三羽烏まで抱いて、このままでは「ニューマイナー」、いや新マイナー、もとい新米はニューウェーブと同じ道を辿る。端から頭に無かったはずの、経済活動の即物的なオペレーションの巧拙だけで評価され、おそらくは拙のレッテルだけ貼られてバッサリと処分されてしまうだろう。

ドクトリンを文章で現さないのであれば、ぜひ、『幻燈』のような、オリジナルの作品を書いてほしい。数年来の曇天が晴れたように、劇的に原点回帰してほしい。「ニューウェーブ」を生み出した特定人は分からなくとも、背景となった心の動きに思いをめぐらせることはできる。彼らは何から逃げてきたのか、なぜ逃げてきたのか。そして「ニューマイナー」を作り上げようとする心は、何から逃げようとしているのか。『月刊架空』では、つげ義春特集やつげ忠男特集があると聞く。楽しみに待っている。


ちなみに、『シュルレアリズム展』では、木下が敬愛するキリコの作品も展示されていた。他の展示と比べて風景の輪郭は鈍いが、やはり素晴らしい。これも、楽しみに待っている。

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